女子カーリング(LS北見)北見市長を泣かせる 町がつないだ魂の襷

2021年3月5日

カーリング 魂の襷リレー

LS北見の皆さんが、北見市長を表敬訪問したところ、北見市長は涙涙涙。挨拶ができないくらい。

平昌ピョンチャン五輪カーリング女子で銅メダルを獲得した「LS北見」の選手5人が7日、北海道北見市役所を訪問し、市民の応援に感謝を述べた。

選手たちは、拍手で出迎える市職員らが待つ市役所に到着すると、一人ひとり花束を受け取った。主将の本橋麻里選手(31)は「チーム一丸となって銅メダルを持ち帰ることができました。日頃よりの皆さんの応援が何よりも私たちのプレーにパワーをくれました。本当にありがとうございます」とあいさつした。

辻直孝市長は「改めてお帰りなさい」と語りかけたが、その後は感極まり言葉が続かなかった。

その後は応接室で歓談し、選手たちは今後の抱負やカーリングの振興などについての思いを述べた。

よほどうれしかったんでしょうね。

でも、地元の歴史と想いを想像すれば、当然の結果だったのかもしれません。
今回は、現役選手ではなく、歴史を振り返りながらLS北見へとつながった襷を見ていきたいと思います。



北見はカーリングの町

今でこそ、カーリングの町として、知れ渡りましたが、そこに至るまでには、様々な方の尽力があってこそ。
その第一歩は、一人の熱血漢によるものでした。

小栗祐治

 カーリングは15世紀頃にスコットランドで発祥したとされるが、日本での歴史は意外と短い。1980年前後、カナダから冬のスポーツとして北海道に伝わってから、今のように国際大会で世界の強豪国と肩を並べるまでわずか40年足らず。競技として普及し始めた頃の日本カーリングの歴史をまとめた。(笠井智大)

カーリングが日本に持ち込まれたのはもっと前という説もある。だが、今のカーリングを遡ると、1980年1月に北海道池田町で開かれたカーリング講習会に行き着く。北海道と姉妹都市提携を結ぶカナダ・アルバータ州の事業で、カナダの国民的スポーツであるカーリングが紹介されたのだ。

この講習会に旧常呂町(現北見市)から3人の男性が参加した。氷上をほうき(ブルーム)で掃きながら石(ストーン)を滑らせ、約40メートル先の円(ハウス)の真ん中で止めるという単純なゲームだが、そこに潜む奥深さがカーリングの魅力。その点に最も興味を示したのが、酒店を経営していた小栗祐治さんという熱血漢だった。
(中略)
当初、リンクは地面に直接水をまいて造成したが、昼になると土の色が太陽光を吸収して氷が解けてしまった。そこで、雪を水平に踏み固めてから水をまく方法に切り替えた。その水も大量にまくと、表面だけが凍ってしまう。試行錯誤のうえ、落ち葉や砂を丁寧に手で取り除いては薄く水を張り、完全に凍るのを待ってまた水をまくという方法にたどり着いた。

極寒の中でのリンク作りは徹夜の作業となった。一見、苦行にも思えるリンク作りだが、実はこれも大きな楽しみだった。小栗さんから最初にカーリングを伝授された一人で、同町の藤吉忍さん(72)は、「冬場、娯楽の少ない町民にとっては大切な交流の場となった」と懐かしがる。30分おきに水をまいてはプレハブに戻り、冷えきった体をホットウイスキーやコーヒーで温めて、カーリングや互いの家族の話に花を咲かせたという。

カーリングは常呂で着実にその根を張り巡らせていく。1988年1月、町内に国内初となるカーリング専用の屋内リンク「常呂町カーリングホール」がオープンした。国際規約規格に合った5シートを備え、一定の氷温管理ができるようになった。屋外リンクの時代は終わりを告げ、自然環境に左右されずに練習ができるようになって競技性が飛躍的に高まっていく。
(中略)
自他ともに認めるカーリングの聖地となった旧常呂町。その礎を築いた小栗さんは高齢になってからもホールに顔を出し、カーラーとの交流を楽しんだ。数々のオリンピック選手を見いだし、直接指導にも当たってきた。地元の女子チーム「LS北見」の主将、本橋麻里さんもその一人。日本カーリングの父、小栗さんのことを知らない人は町内には見当たらないほど親しまれたが、2017年5月に肺がんのため、88歳で亡くなった。

前出の藤吉さんは言う。「カーリングが上手とか下手ではない。小栗さんは人をその気にさせるのが上手だったし、夢があった」。平昌オリンピック出場を決めたLS北見をはじめ、その夢は次の世代に確実に引き継がれている。

地元の酒屋のオッサンが「よしカーリングでも、やんべぇ」と言い出したのが、きっかけの一つであることは間違いないようですね。「道具がなければ、つくったらいいべよ」「こんなんで、どうだべや」と、手作りで進めていったのでしょう。上の文章だけで様々な気持ちが伝わり、様子が目に浮かぶようです。
残念ながら、昨年5月に亡くなったそうです。
町にカーリングを根付かせたのは、熱血漢のおっちゃん(失礼)だったのです。



ウォーリー・ウルスリアック

小栗さんが、カーリング文化の開祖なら、競技と魂を教えたのはこの方です。

カーリングを日本に広め、「日本カーリングの父」と呼ばれるカナダ人がいる。元世界王者のウォーリー・ウルスリアックさん(88)。初来日から約40年、日本が男女ともに平昌五輪出場を決めたことを喜び、「氷の上にまいた種が、花を咲かせた。この花はたくさんの種を生むことになるよ」と語った。

北海道庁に招かれ、ウォーリーさんは1980年に北海道池田町を訪れた。米国、スイス、スウェーデンなどへも技術指導に行ったことはあったが、競技自体が知られていない場所で教えるのは初めてだった。

伝えたのは三つ。①仲間同士で協力する大切さ②楽しんでプレーすること③どんな年齢の人でも挑戦できるスポーツだということ。「ずいぶん一緒に酒を飲んだ。友情を育めたことが、普及に成功した要因だと思う」。6年間にわたって旧常呂町(現北見市)を中心に、東京、長野などへも呼ばれ、その後は計50人以上の選手をカナダの自宅に招いて指導した。

来日から4年後に日本カーリング協会が発足し、「教え子たちは日本国内だけじゃなくて韓国、中国へも熱心に教えに行ってくれた」。北米、欧州に続いてアジアの国々が世界連盟に加わったことで「3大陸で広く行われている競技」とする冬季五輪の資格が満たされた。カーリングは98年長野五輪から正式競技に。「五輪競技になったのは、日本のおかげだと思っている」と言う。

かつては消防署勤務だったウォーリーさんだが、その後は祭りの出店で菓子を売って生計を立てた。現在、世界選手権出場チームを決めるカナダ選手権で優勝すると、賞金22万5千ドル(約2500万円)と2年間のスポンサー契約が付くが、「私が優勝した61年は、トロフィーと置き時計しかもらえなかった時代」と笑う。「カーリングをやってきて一番のご褒美は日本に行けたこと。北海道で過ごした時は、人生で最高の時間の一つ。お金には代えられない経験だ」

3年前にウォーリーさんの自宅が全焼した時には、旧常呂町のカーリング関係者が義援金を集めて届けた。昨年4月には政府から旭日双光章が贈られた。(渡辺芳枝)

この方が教えてくれた3つのこと(①仲間同士で協力する大切さ②楽しんでプレーすること③どんな年齢の人でも挑戦できるスポーツだということ。)のうち、LS北見のチームには、仲間同士で協力する大切さと楽しんでプレーすることは、しっかり伝わっていました。オリンピックに出場したどのチームよりも、互いに仲間をカバーし、楽しんでプレーしていたと思います。
もちろん、本橋麻里の献身があり、各選手の努力に個性がうまくマッチしたことは事実だろうと思います。しかし、その遺伝子は町の歴史として彼女たちに伝わっていたのです。




常呂町と北見市の覚悟

カーリング文化の開祖がいて、その後、競技魂の伝道者がいました。
文化が徐々に根付いたところに、日本初のカーリング専用ホールを行政が作ります。これは相当な覚悟が必要でしょう。


昭和62年(1987年)には、「はまなす国体デモンストレーション行事」として「カーリング競技」が常呂町で開催されることが決まり、その施設として国内初の「屋内カーリング専用リンク」の建設が着工され、翌63年(1988年)1月に5シートの「常呂町カーリングホール」が完成、平成元年(1989年)2月に全道から男子32チーム、女子12チームが参加して国体が開催されました。
(中略)
平成25年、日本初のカーリングホールはその使命を終え、通年型の6シートを備える新たなカーリングホールに生まれ変わりました。新カーリングホールは、ネーミングライツ・パートナーを得て、「アドヴィックス常呂カーリングホール」の名称で平成25年11月に開館しました。

北見市は人口約12万の小さな自治体です。
おそらく、人口の減少や高齢化も進んでいることでしょう。その中で約30年前にすでにカーリング専用施設を建築。5年前には新型施設への建て替えです。いったいどれほど予算を無理したことでしょう。
行政者たる北見市長も、カーリングを応援するだけではなく、現実問題に直面していたはずです。
「病院つくれ!」や「他のスポーツも施設つくってくれ!」という声も当然にあったと思います。それも当然のことです。様々な困難を乗り越えてきたことは容易に想像できます。

町としてカーリング優先で理解された部分もあったかもしれませんが、有力クラブすらないのが、実情でした。
そこに本橋麻里が帰ってきてチームを作った。頑張ってほしい、と考えつつもいつまでもカーリングだけにお金をかけられない、という意見もあったと思います。
葛藤の中で過ごしてきた行政の担い手たち。

それでも頑張ってきた。選手だけでなく、選手を支えた就職先。施設をサポートした行政。
いつ実を結ぶか?まったくわからない。現実的な問題も多く乗りかかる。「本当にカーリングだけの施設でいいのか?赤字垂れ流しでいいのか?」など誹謗もあったはずです。

そのさなか、本橋麻里とその仲間が、オリンピックでメダルを取ってきた。市を預かる市長として涙があふれても、当然ではないでしょうか。本当にうれしかったのだと思います。辛いことも多かったでしょう。カーリングで町おこし!などと言う軽い気持ちだけで、ここまでこれません。市長も腹をくくっていたはずです。

カーリング文化の開祖 小栗祐治
カーリング魂の伝道者 ウォーリー・ウルスリアック
行政で支えた     北見(常呂)の皆さん
選手の職場を支えた  職場の皆さん
カーリングのど変態  本橋麻里
そして若き選手たち。

このすべてがそろって、40年かけてメダルを取ることができたのです。少しづつ魂の襷をつないで、やっとメダルに届いたのです。
自分たちの夢として、自分たちの足で歩んだ結果ですね。
本当におめでとうございます!

 

最後に

町おこしで、カーリング!などと言っているメディアもあるみたいですね。しかし、このくらい信念をもって行わないと無理ですよ。北見(常呂)とは、魂が違いますからね。
また、オリンピックは競技発展には、もっとも適した舞台です。東京オリンピック・国立競技場も予算で叩かれていましたが、中途半端なスタジアム作るのではなく、「カーリング専用!」と、これくらい気合入ったスタジアムを作る気持ちがないとできませんよ。

多くの方の情熱があふれることを祈ります。