東日本大震災を仙台で被災した経験から 被災地での教訓(その1)

東日本大震災から7年

東日本大震災からはや7年が経過しようとしています。
メディアでは徐々に震災から復興への過程を報じるようになってきました。
今年は、民放での放送が減ったように思います。追悼の意もある一方で、生きていくための復興への道の途中でもありますし、そのことは当然だろうと思います。
亡くなった方へ思いを馳せると同時に、精一杯頑張って生きていくことの双方が大切なことです。

この機会に、仙台で被災した経験を書いてみたいと思います。私の住むエリアは津波がくる場所ではありませんでしたから、津波については言及できません。しかし都市での被災経験は、関東に住む現在でも教訓として普段の備えを検討する際に参考になるのではないか、と考え記載してみたいと思います。
関東でも帰宅難民という言葉が出るほどの様相だったと聞いています。しかし、実際の被災地とは全く状況が異なっています。その中で、備えなければならないことなどを個人の経験から書いていきたいと思います。



2011年3月11日 午後2時46分

当時勤務していた会社を3月末で退職する予定であった私は、引継ぎを後輩にしていました。東北6県で展開する営業担当者を数人でサポートする仕事をしていました。引継ぎを後輩にして仙台駅に到着、遅い昼ご飯を食べて会社までの道中にあるドコモショップに後輩と立ち寄っていました。
まさに46分だったと思います。場所が携帯電話ショップということもあり、文字通り店中から一斉に緊急地震速報が鳴り始めました。
「地震かな…」と後輩と顔を見合わせ、またお店の方も「地震かもしれませんね。頭を守って下さいね」などとまだ余裕がありました。
ゴゴゴゴゴゴゴ
と、地鳴りとともに揺れが徐々に激しくなっていきます。立っていることが困難になってきて座り込みながら「これはヤバい」と声をかけあっていました。店員さんも「頭を守って下さい!机の下に入って下さい!」と大声を出しお客に注意を促しながら、身を守り始めました。

ドア近くのガラス面に居た私の近くには、座面の低いソファーしかありませんでした。後輩がひざまずき、土下座のような姿勢で頭をソファーの下に入れようとしたので「ガラスに近いし、頭だけ隠して首をあらわにするのは危ない。中央に寄って鞄で頭を守ろう」と鞄を頭の上に、店舗中央近くに移動しました。
仙台の駅のアーケード街の中のお店に居た私は、周りの風景をゆっくり見ていました。これはひどい地震だ…。街が壊れていく…。
もともと、宮城県(宮城県沖)は地震の発生確率が高いとされていた場所で、30年以内の大地震90%以上と予測されていました。その地震がとうとう…。お店の中の様子、外の様子を今でもありありと思い出すことができます。

地震は数分続いたと思います。一度目のピークが過ぎて若干弱まった際にドコモショップの方が「気を付けて下さい。近くの〇〇小学校へ避難してください!」と誘導の声をかけ始めました。
私は、この避難誘導を含め、ドコモショップスタッフの声に、称賛を送りたいと思います。まさに訓練通り指示を出したと思います。多くの方が茫然自失状態で、おろおろしている状況。的確に指示を出していたと思います。避難場所を指示できる携帯ショップってどれくらいあるでしょうか。
地震に備え、教育と建物を強固にしていたおかげで、地震そのものでの犠牲者を減らすことができた。と今でもそう思っています。

こちらのお店です



第二の地震到来

非難誘導を始めたころ、まだ地面は揺れてました。しかし、歩けないほどであった先ほどまでと異なり、歩けると判断したことから、少しづつ避難場所への移動を考え始めたのです。
第二の地震(おそらく一番の揺れ)は、この時に到来しました。
大きく揺れる地面。先ほどの地震でも耐えていたショーウインドーのガラスも割れ始めるほどでした。2階にあるお店のガラスが割れ飛散を始めます。お互いに声をかけあいながらもう一度、建物の中へ避難。
「これはひどいことになった」
奇麗な仙台の町が、壊れていく。ひどいことが起きたと、この時初めて頭に浮かんだことを思い出します。体に怪我がないこともあり、どこか他人事のように感じていたものが、徐々にわがことと感じ始めたのです。

第二の地震が治まったころ、建物を出て会社に向かいました。
道路にでて、壊れた街並みを呆然と見守る方たち。当時あった仙台のダイエーでは、上階の割れた窓ガラスから大量の水が流れ落ちていました。
時折、大きく揺れてその場に立ち尽くすことが数回。
建物の大きな損壊は見えないものの、建物の中はモノがあふれ、余震が続く中では、多くの方は道路で様子を見るほかなかったと思います。

ようやく、会社に到着、見知った顔が多くいることにとても安心しました。
出張から戻った我々は、コートを着用していましたが、避難者のほとんどは簡単な上着だけで過ごしていました。
また、近くを見てみると骨折の可能性がありそうなけが人も何人か居ました。
しかし、通報する手段がありません。

巨大地震だった東日本大震災の被災地では、インフラが完全に破壊されていました。
正確には完全な停電のために、バッテリーで動く一部の機械を除き、電気機器が使用できませんでした。携帯電話も基地局がほどんど使用できず電波を受信できません。
当たり前ですが、信号も消えたままです。路上に人が多いこともあり、そのためほとんどの車が動けずにいました。

首都圏でも、同様に帰宅難民が出たと、あとから聞きました。また携帯も繋がらない状態だったとも聞いています。
しかし、首都圏では停電はしていなかったと思います。電車も動けない、と聞いていましたが、電気はあったはずです。
大地震の被災地では電気がないこと。このことを充分に理解する必要があると思います。
災害伝言ダイアルは、被災地では使えません。電波がこないのですから。
電車は一晩待っても動きません。線路が壊れていますから。
バスも同様。高速道路は通行止めです。
コンビニも販売できません。電子マネーも当然使えません。何もかも、生活のすべての手段がなくなるのが、大地震の被災地であることをご認識下さい。
(確か電気の復旧は2日後じゃなかったでしょうか。)

電気がない。このことを災害対策の状況の一つに入れて訓練を実施してほしいと思います。
関東に戻り、避難訓練をやっても緊迫感がまったくなく、驚いています。どうしてそうなのか?特に地方自体の公務員の方。まったく緊迫感が無い。
後述しますが、公務員の方は実際には活動量が途轍もなく拡大します。
震災があった後でも、この体たらくはひどすぎると思います。

一回切ります。何回かに分けて記載します。