【保存版】厳選 平昌オリンピックいい話

2021年3月5日

祭りのあと

平昌オリンピックが終了しましたね。
前回(平昌オリンピックどうでもいい話 マスコミが報道しないだろう情報総集編)は、個人的ないい話を記載してみたいと思います。
残念ながら、カーリング女子関係については今まで書いてきたので、少ししか記載しません。以前の記事を参照くだされば幸いでございます。
頑張れ!女子カーリング オリンピックチームの笑顔の裏にあるもの
女子カーリング銅メダルおめでとう 本橋麻里の献身



女子ジャンプ 伊藤有希

栄光の裏に、悔し涙あり。
しかし、それでも心の襷をつなぐ。いつか、きっと。どの競技でも繰り返されてきた絆。私のコメントは邪魔になるので全文を引用します。


平昌五輪が、あとわずかで閉幕を迎えようとしている。
数々の光景が焼きつく中でも忘れがたいものは、2月12日、ノルディックスキー・ジャンプ女子ノーマルヒルでの場面だ。
会心のジャンプを決めた高梨沙羅のもとに赤いウェアを着た選手が駆け寄り、抱きしめる。すると高梨の目から涙がこぼれ落ちた。
その選手は、伊藤有希だった。
伊藤は、高梨とともにメダルを狙える1人として大会に臨んでいた。昨シーズンはワールドカップ総合2位とキャリア最高の成績をおさめ、今シーズンも苦しみながら上位に食らいつき、総合5位で平昌五輪を迎えていた。
自身目標としながら、ソチ五輪では手にすることができなかったメダルがほしいと強く望んでいた。

「伊藤だけ追い風は切ないです」

だが結果は残酷だった。1本目、2本目ともに飛距離が伸びず、最終成績はソチの7位を下回る9位。しかもそれが自身の失敗によるものではなかった。上位の選手中ただ1人、2本とも追い風に見舞われるという不運に見舞われた。
「4年間努力をしてきたのに、伊藤だけが追い風だったのは切ないです」
アウトドア競技とはいえあまりにも酷な結末、努力を無にしてしまう不運だったことを、鷲沢徹チーフコーチの言葉も表していた。
「たくさんの支えてくれた人たちがいました。喜ぶ顔が見たくていい結果をと思っていたのに」
試合後、涙ながらに語った伊藤の心中はいかばかりだったか。
にもかかわらず、伊藤は無念も失意も何もかも隠して、自身のジャンプの直後に待ち受けて、飛び終えた高梨を祝福したのである。

女子ジャンプのためにいいジャンプを。
「4年前に悔しい思いをして、そこから頑張ってきたのを見てきたので、とてもうれしかったです」
高梨に駆け寄った場面を尋ねられ、伊藤はそう言った。
そこには、ともにジャンプの女子の世界を歩んできた同志としての連帯感もあったのではなかったか。
伊藤は以前、何度も語っていた。
「先輩たちが大変だったのはよく知っていますし、そういう先輩方がいての自分だと思うので、もっと女子ジャンプのためにいいジャンプを飛びたいし、若い選手の力にもなりたいです」

五輪種目前に強いられた数々の苦労。
ジャンプ女子は長年、五輪種目ではなかったこともあって、選手は苦労を強いられてきた。
「女子にジャンプができるのか」
「子供が産めなくなるからやめた方がよい」
そんな言葉も飛び交った時期もあった。
認知度が低いから支援も薄い。遠征の多い競技ゆえに就職も難しい。居酒屋のアルバイトで生計を立て、札幌で行われる国際大会に2時間の睡眠時間で出る選手もいた。数十の会社にアプローチし、支援先を見つけられず競技生活の継続に悩む日本代表選手もいた。
ソチ五輪の1年前には長年指導にあたってきた日本代表チーフコーチが、支援先の企業を失ったことで生計を立てることを優先せざるを得なくなり、辞任する事態もあった。
苦しんできた先輩の話を聞いたり、時には目の当たりにしてきた。伊藤がジャンプに励んできた少年団もまた、運営は楽ではなかった。だから何度も、「女子ジャンプのために」とこれまで語ってきた。

「先輩たちがいて、自分がいます」

高梨もそうした歴史や競技環境を知る1人であることに変わりはない。
「先輩たちがいて、自分がいます」
「感謝のためにも、もっと知ってもらうためにも、いいジャンプを飛びたいと思っています」
ことあるごとに語ってきた。
ソチで苦しい思いをした2人は、互いに切磋琢磨し、刺激しあって今日にたどり着いた。その姿を身近に見てきたから伊藤は祝福したし、抱きしめられた高梨は素直に感情を露わにした。
同時に、先輩たちの築いた歴史を知り、女子ジャンプの地位向上をと思ってきた同志だからこそ通じ合うこともあった。

それは伊藤だけではない。同じくジャンプ女子日本代表の岩渕香里、勢藤優花もまた、高梨の銅メダルを心から喜んだ。それは同志という意識があればこそだっただろう。

12歳にして率先して場を整えようと。

こうした姿を見て思い出したことがある。伊藤が小学6年生、12歳のときの取材でのことだ。

「こんなに遠くまで、寒いのにありがとうございます」

言葉だけでなく、取材するこちら側が暖かい環境でいられるように、率先して場を整えようとしてくれた。わずか12歳の彼女の気遣いは、今なお筆者の心に刻まれている。そうした周囲を思いやる人柄は小学生の頃から変わらない。当時の印象と平昌で今回見た光景がふとだぶって見えた。
伊藤は望む結果を手にすることができなかったし、そういう意味では勝者ではなかったかもしれない。
それでも、高梨を素直に祝福した彼女の姿もまた称えられるべきだ。それはまさにオリンピックにふさわしいトップアスリートたる振る舞いだった。
そう思わずにはいられなかったし、今大会の忘れがたい光景でもあった。
松原孝臣




小平奈緒選手を支えた相澤病院

小平選手といえば、印象に残った写真と言えばこれでしょう。

お互いに称えあう、とても素晴らしい写真です。
しかし批判を覚悟で書きますが、韓国の選手、大袈裟でしょう。
今回、金メダル候補の一番手は小平選手です。何しろ、実績が違います。小平選手はワールドカップ500m15連勝(継続中)の絶対王者。しかも2017年に世界新記録を更新しています。
母国開催だからと言って、ライバルで競い合ってきたとはいえ、選手としてピークにある小平選手に対して、韓国の選手が小平選手に勝てると思うほうが、おこがましいと思います。
互いに称えあうことは美しい。しかし、それ以上ではないでしょう。

それよりも、称賛すべきは小平選手を約10年支えた相澤病院ですよ。
本日現在の病院HPのスクリーンショットがこちらです。小さくて見えないと思いますが、小平選手の話題は一切なし。質実剛健。日本有数の選手であった小平選手を9年間バックアップし続け、金・銀メダルの影の真なる功労者であるにもかかわらず、ホームページには一切の記事がありません。

 


25日に閉幕した平昌五輪のスピードスケート女子500メートルで金メダル、1000メートルで銀メダルを獲得した小平奈緒選手(31)。世界の頂点を極めたスプリンターを9年間にわたり支えてきたのが、現所属先の相沢病院(松本市)だ。26日、報道陣の合同取材に応じた同病院最高経営責任者の相澤孝夫さん(70)は「真面目で、しんの強い人だと思った」と小平選手との出会いを振り返った。

2009年3月。信州大の卒業を控えた小平選手は競技生活継続の危機に直面していた。在学中から師事する結城匡啓コーチの元で引き続きスケートに打ち込みたいと考えていたが、所属先が見つからない。そんな師弟に手を差し伸べたのが相澤さんだった。

「長野の人が長野のコーチについて長野でスケートを究めたいと言っている。会う前から雇うことは決めていた」と振り返る。雇用後には小平選手から「松本で働いた後に長野で練習する」との申し入れがあったが、断った。「医療をやってくれということで雇ったわけではない。スケートに専念して」と長野市内に住宅を用意。以降は給与のほか遠征費や用具代など年間1000万円超の支援を続け、14年ソチ五輪後にはオランダ留学の打診を快諾するなど可能な限り要望に応えてきた。

小平選手は500メートルの世界新記録更新を次の目標に掲げ、現役続行の意思を示している。「小平さんが嫌だと言わない限り、またここでスケートに打ち込んでもらえるならこんなにうれしいことはない」と相澤さん。今後も最大限の支援を続けるつもりだ。

素晴らしい!!!
カーリング女子を支えた北見市の地元企業同様、このような無名なバックアップがあってこそ、今回の成績を生み出すことができたのです。
有名な選手には、スポンサーがつきやすい。それは仕方がない事実でしょう。しかし、このような無名に近い選手をバックアップすること。これは本当にすごいと思います。
特に小平選手は31歳。遅咲きの選手を、じっくり育成してくれた相澤病院が無ければ、メダルはありませんでした。小平選手本人の努力はもちろん、病院としてのバックアップに、日本人は感謝しなければなりません。ありがとう。相澤病院。



吉田知那美選手の挨拶

どうして、若干26歳の若者がこんな挨拶ができるのだろう。自分の26歳の時には考えられない…。自分なりに苦労してきたつもりでしたが、彼女の足元にも及びません。
できれば動画で確認してください。特に地元に戻り、元チームメイトにメダルをかけるシーン。絆を大切にした姿が涙を誘います。
動画見れないときのために、他の引用もつけておきます。







(一部略)

 LS北見の選手5人は27日夜、北海道大空町の女満別空港に到着、約500人のファンが「お帰り」などのねぎらいの言葉と拍手で出迎えた。
空港で行われたセレモニーで、選手は時折、涙を浮かべながら応援への感謝を述べた。
吉田夕梨花選手(24)は「つらい戦いもあったが、たくさんの人の応援に支えられた。もっと強くなって北見市を盛り上げたい」と涙ぐみながら話し、鈴木夕湖選手(26)は「こんなにたくさんの人に出迎えてもらえ、疲れがぶっ飛ぶぐらいうれしいです」と喜んだ。
吉田知那美選手(26)は「(本橋)麻里ちゃんがゼロからつくったこのチームで、家族や友人に支えられメダルをとることができた」と涙目で語り、藤沢五月選手も「自分のためだけにカーリングをやっていたが、同じ思いを持つ5人が集まりメダルをとることができた。たくさんの人の思いがこもった五輪でした」と声を詰まらせた。
主将の本橋麻里選手(31)は笑顔で銅メダル獲得を報告し、「うれしい気持ちと悔しい気持ちがありますが、これからは北見市がカーリングだけではなくスポーツのまちと呼ばれるように頑張りたい」と話した。
5人はその後、練習拠点である北見市常呂町のアドヴィックス常呂カーリングホールに移動し、会場いっぱいに詰めかけた家族や知人ら約220人に祝福され、ホッとした表情を見せた。

吉田知那美選手は「正直この町、何にもないよね」と会場を笑わせた後、「(私も)この町にいても絶対夢はかなわないと思っていた。だけど、今はこの町にいなかったら夢はかなわなかったな、と思う」と涙声に。会場に集まった大勢の子どもたちを見つめながら、「たくさん夢はあると思うけど、大切な仲間や家族がいれば、夢はかなう。場所なんて関係ない」と力強く語り、場内から大きな拍手が送られた。

追 ほかにも、選手をバックアップしてくれた、企業の皆さま。大変感謝しております。誠にありがとうございました。