死刑執行と少年バット事件 加害者と被害者の問題

2021年2月22日

最近、気になったニュースを少々。

死刑執行のニュース

変態毎日新聞より引用します。

上川陽子法相は19日、千葉県市川市で1992年に会社役員一家4人を殺害したなどとして、強盗殺人罪などで死刑が確定した事件当時19歳の関光彦(てるひこ)死刑囚(44)=東京拘置所=の死刑を執行したと発表した。事件当時少年だった死刑囚の執行は、4人を射殺した永山則夫元死刑囚(事件当時19歳、執行時48歳)が97年8月に執行されて以来となる。また、群馬県で94年にあった親子3人殺害事件で殺人罪などで死刑が確定した松井喜代司死刑囚(69)=同=の死刑も同日執行された。
(中略)
——————-
おことわり
毎日新聞はこれまで、事件当時少年だった関死刑囚について、再審や恩赦による社会復帰の可能性などが残されていたことから、健全育成を目的とする少年法の理念を尊重し匿名で報道してきました。しかし、死刑執行により更生の機会が失われたことに加え、国家による処罰で命を奪われた対象が誰であるかは明らかにすべきであると判断し、実名報道に切り替えます。

死刑執行のニュース自体は、個人的には特記すべきところはない。
特記すべきは、後半の毎日新聞のおことわり、項目です。
もう一度、引用します。死刑執行により更生の機会が失われたことに加え、国家による処罰で命を奪われた対象が誰であるかは明らかにすべき
だそうです。
他の新聞での報道を確認してみると、

(中略)読売新聞は、罪を犯した未成年者について、少年の健全育成を目的とした少年法の理念を尊重し、原則、匿名で報道しています。しかし、国家が人の命を奪う死刑が執行された対象が誰なのかは重大な社会的関心事であるため、実名で報道します。

【おことわり】産経新聞は原則として、犯行当時未成年だった事件は少年法に照らし匿名としてきました。しかし、関死刑囚については死刑が執行され、更生の機会が失われたことから実名に切り替えます。

サンゴ礁にKYと傷をつけ、スクープ扱いで報じた朝日新聞もついでに。

 〈おことわり〉 朝日新聞はこれまで、犯行時に少年だった関光彦死刑囚について、少年法の趣旨を尊重し、社会復帰の可能性などに配慮して匿名で報道してきました。死刑が執行されたことを受け、実名での報道に切り替えます。国家によって生命を奪われる刑の対象者は明らかにされているべきだとの判断からです。本社は2004年、事件当時は少年でも、死刑が確定する場合、原則として実名で報道する方針を決めています。

これらの表現を並べてみます。
毎日 死刑執行により更生の機会が失われたことに加え、国家による処罰で命を奪われた
読売 国家が人の命を奪う死刑が執行
産経 死刑が執行され、更生の機会が失われた
朝日 国家によって生命を奪われる刑の対象
この表現の違いはいかがでしょうか。
法治国家が、法律に従い、死刑を執行すること。この是非について議論があるのは理解しています。
私はその報道の仕方、毎日新聞の考え方に共感できずにいます。いや反感を覚えています。国家による処罰で、という表現はいかがなものでしょうか?曲がりなりにも大新聞が書く内容でしょうか?
この犯罪について興味がある方は、検索すればすぐに見つかります。ここに引用する気にもならない酷い事件です(一応wikiのリンクのみ貼ります市川一家4人殺人事件)。
読んでいて、気持ちが悪くなる本当に嫌な事件です。法律用語でいう善意無過失の一般人が4人殺されたのです。その犯罪者が死刑執行されると「国家による処罰で命を奪われた」という表現になることが、まったく理解できません。

また、「更正の機会」と記載している新聞社もあります。これほどの犯罪を行い、逮捕時に反省も弁も聞かれなかったといわれる本死刑囚が更正するのでしょうか。
亡くなった4名の命、被害者の気持ちと引き換えに更正させるべきなのでしょうか。被害者の人権はそんなに無視してよいのでしょうか。軽犯罪ならともかく…
毎日新聞の真似をすれば、事件では4人の方が「個人の横暴による暴行で命を奪われた」のです。やりきれない思いです。

どうして、毎日新聞は被害者よりも加害者よりになるのでしょうか。



小学2年生 バットで女性を殴る

兵庫県内の児童館で今年5月、小学2年の男児が施設に勤務する20代女性の首をバットで殴って負傷させる事件があり、兵庫県警が傷害の非行内容で、男児を児童相談所に通告していたことが18日、関係者などへの取材で分かった。女性は右耳がほとんど聞こえなくなるなどの後遺症が出ており、現在も治療中という。
関係者によると、女性は今年5月下旬、勤務していた児童館で、男児に突然、施設にあった少年野球で使われるようなバットで後ろから首を殴られた。女性は意識もうろうとなり、約1週間入院。退院後、右耳がほとんど聞こえなくなり、自律神経を損傷した影響で突然めまいを覚えるようになったといい、12月に再度入院し治療を受けるなどしたが、完治は難しいという。
この男児は、事件の数日前にも別の児童に暴力を振るっていたといい、女性は6月、県警に被害届を提出。県警は捜査の結果、女性に対する傷害の非行内容で10月、男児を児童相談所に通告した。
(中略)
事件後は、静かな場所なら相手の話が聞き取れるが、周囲が騒がしいと、ほとんど聞こえない状態になった。授業や課外活動で児童の発言を聞き落としてしまう可能性が高いため、学校での勤務を断念せざるを得なくなった。
だが、それ以上に女性を苦しめたのは、周囲の反応だった。10月、教育関係者が集まる交流会に出席すると、事件を「単なる事故」と切り捨てられ、「児童が感情をむき出しにするのはむしろ良いこと」「小学生をなぜそこまで追い詰めるのか」と、被害届を出したことを逆に非難されたという。

3行でまとめます。
小学校2年生が、野球のバットで児童館の女性を殴り、後遺症。
警察に被害届を提出した
教育関係者から、被害届を出したことを非難されてしまった。

これも、これでいいのでしょうかね…。
女性は被害者ですよ。子供とはいえバットで殴る。後遺症が残る。これは立派な犯罪です。犯罪者が擁護され、被害者が非難される。
これっておかしいですよ。被害者はあくまでも女性。責められるべきは加害者側の少年です。日馬富士のビール瓶問題も盛り上がっていたので以前書きましたが、子供とは言えバットで殴ったら、下手したら死にます。傷害罪であることは明白でしょう。

なぜかこの手の問題(教育や報道)は、被害者と加害者が入れ替わってしまうように感じます。
大相撲の問題も、単純に見れば被害者である貴ノ岩を師匠である貴乃花が、マスコミや相撲協会から隔離して守ってる、という見方もできるのではないでしょうか。(この問題の判断は、今後の情報を待ちたいところです)

それぞれの被害者と加害者。少し考えてみる必要があるのではないでしょうか。